長崎県は九州本島部分と壱岐・対馬地方、五島地方などの島嶼から構成されますが
看板資料からは本島部分にしか掲出の記録がありません。
島原半島の海岸部に残る旧道は比較的はっきりと残っています。
昭和30年代の雰囲気が残る、旧道マニアには大変興味の沸くところです。
この旧道では肥料系の看板が多く残っています。

4号看板/3号看板
この看板群の貼られた順序を考えると
何とも不思議な感じを持ちます。
これは剥がれた看板が少なくとも2枚以上
あったに違いありません。
剥がれ落ちた1枚の看板は3号文字のみ看板です。
もう1枚は東洋カタン糸の場所にあったと思います。
今残っている3号看板は後年貼られたものです。
なぜならば、東洋カタン糸看板が、だるま4号看板の
上に貼られているからです。
しかし、なぞとして残るのが、ほていさんの絵看板と
だるま3号看板が並んで貼ってあることです。
それとも壁板代りに
この家の方が貼り直したのかな?
撮影地:長崎市白崎
4号看板/3号看板

手が凍えていたのでしょうか。
バスの焦点がブレテしまいました。
写っているのは長崎バスの下大橋行きです。
この路線は香焼町などの長崎市南部方面から
長崎市内への路線で、運行数も多いようです。
長崎は観光以外では造船業も主要な産業です。
撮影地の前は造船の鉄工所です。
この道を進みますと長崎半島南端の野母崎です。
長崎半島を一周し東部の茂木町も調査しましたが
看板を確認できませんでした。
貴重な長崎市内の看板といえます。
撮影地:長崎市白崎
4号看板

島原半島南端の口之津町は有明海側に
湾口を持つため、いつも穏やかな天然の良港です。
三池港が開港するまで、遠浅の有明海では
大型船の接岸が出来ませんでしたので
口之津港まで石炭を回漕していたそうです。
これは明治41年に三池港が開港するまでの
とても古い昔話ではあります。
もっと古い昔話として、江戸時代初頭に
キリシタン禁止令が発布されるまで
平戸と並んで口之津は対外貿易の窓口でした。
撮影地:長崎県口之津町東大屋名
小浜町の看板

小浜町には小浜温泉と雲仙温泉の二つの
有名な温泉地があります。
山の温泉地の雲仙温泉に対して、小浜温泉は
海に面しており、対照的でもあります。
名産品としては、湯煎餅があります。
私が子供のころに、なぜかよく湯煎餅を
お土産にもらっていました。
湯煎餅に描かれた絵地図が好きで、真剣になって
眺めていたのを覚えています。
「都の月」は福岡県瀬高町のお酒です。
長崎には酒どころがないのでしょうか。
お隣の佐賀県鹿島市浜は酒造どころです。
撮影地:長崎県小浜町北本町
小浜町の看板

小浜温泉の商店街の様子です。
雲仙普賢岳噴火の時は雲仙温泉はもちろん
この小浜温泉も観光客が来なくなって
観光産業が主体の小浜町は大変な時期でした。
噴火が沈静してから、福岡市からの格安直行バスを
運行したりして、観光客勧誘に躍起になりました。
小浜温泉は雲仙や島原のように観光地に
恵まれているわけではないので、日曜日の商店街は
このように、ひっそりとしたものです。
撮影地:長崎県小浜町北本町
飯盛町江の浦の看板

たばこが贈り物として問題でなかったころの看板です。
たばこ問題の議論が掲示板で白熱しているようですが
たばこ問題を簡単に整理すると
@依存症の問題
A他人への迷惑
B健康の問題
の3点に絞られると思います。
この中で、たばこ問題の議論を混迷させている理由が
依存症の問題が絡んでくるからです。
撮影地:長崎県飯盛町江の浦
有家町の看板(その1)

島原半島では、肥料系の看板が数多く見られます。
肥料系の看板は縦長タイプが多いようです。
製品名を強調させることと
どこにでも貼れるようにしたからだと思います。
とくに有家町では日産化学の看板が集中しています。
日産化学は会社のHPによりますと
日本で最初の化学肥料製造会社であるそうです。
それにしても肥料系看板は種類が多いようです。
完全に網羅するには、全国津々浦々の農村部を
隈なく調査しなければならないのでしょうか。
奥というより裾野の広さを感じるところです。
撮影地:長崎県有家町石田名古城
有家町の看板(その2)

有家町を始め島原半島南部には
そうめん製造業が盛んな地域であります。
その中で有家町は、有家町HPによると
全国2番目のそうめん生産量の自治体であるそうです。
また、そうめんのOEMも盛んなようで
有名な揖保の糸も実は島原半島でも生産されていると
テレビ番組で紹介してありました。
ちなみに他に全国のそうめん産地としては
奈良県の三輪そうめん・香川県の小豆島そうめん
などが知られています。
撮影地:長崎県有家町石田名古城
有家町の看板(その3)
島原半島南部のほとんどの地名には
「名」が付いています。
道路地図を見れば、よく分かります。
また、同じ長崎県の彼杵半島北部から大村湾沿岸では
地名に「郷」が付いています。
雲仙普賢岳噴火の時、深江町の水無川を中心に
交通が遮断されました。
道路では有家町俵石展望所まで通行可能でしたので
深江町へは、この有家町からのアクセスが
しばらくの間続きました。
島原鉄道も水無川を境にして分断され
残された車両によって終点の加津佐駅との間を
往復運転しました。
撮影地:長崎県有家町石田名古城
有家町の看板(その4)

対岸の天草と同様に島原半島でも
月虎かとりせんこうの看板を見ることができます。
今でも、はっきりと覚えていますが
雲仙普賢岳噴火当初は白い水蒸気が
緑の普賢岳頂上から蒸気機関車のように
小さく上っていました。
あれほどの大災害に発展するとは
誰も想像しなかったと思います。
しかし、数週間が経ち次第に水蒸気の勢いが
増してきて、溶岩ドームが出現してからは
あっという間に今の状態に進んでいきました。
撮影地:長崎県有家町石田名古城
有家町の看板(その5)

福岡県大牟田市にある三井化学は
今でも大牟田市の大きな産業の柱となっています。
石炭産業が盛んであったころは
石炭化学産業(要するに肥料製造プラント)が
石炭コークスを利用した石炭関連産業の
中心的役割を果たしていました。
その三井化学は数年後、三井住友銀行と同じく
住友化学と合併し三井住友化学に変わります。
それに対して日産化学工業は開業以来
独自路線で着々と発展されているようです。
撮影地:長崎県有家町石田名古城
南串山町の看板

長崎県は漁業の盛んな県です。
五島や生月などでは、まき網漁業などの沖合漁業の
母港になっており、まき網船団の大型中型漁船が
停泊しているのを見ることが出来ます。
また、「あご」と呼ばれるトビウオ漁が盛んです。
シイラが一緒に網にかかっているのを水揚げの際に
生月島で見たことがあります。
ここ南串山町は橘湾に面しています。
石油ショック後、大型石油タンカーが停泊していました。
各地に石油備蓄基地が建設されるまでの期間
大型タンカーが浮かぶ異様な風景が見られました。
撮影地:長崎県南串山町京泊名
多木肥料

コンビニエンス・ストアのように本部が販売独占権を
販売者に与える流通チャネルを
フランチャイズ・チェーンといいますが
特約販売店のように製造・卸売業者が
各販売店の独立性を保ちつつ
協同組織を設立する流通チャネルを
ボランタリー・チェーンといいます。
この多木肥料看板のケースは、これに該当します。
撮影地:長崎県南串山町京泊名
くみあいブランド

全国的に知名度の高い製造業者のブランドを
ナショナル・ブランドといいますが
同様に流通業者が自己の責任のもとにつける
ブランドをプライベート・ブランドといいます。
くみあい(クミアイ)ブランドの看板は
肥料関係から日用品まで多岐にわたるようです。
この看板はメーカーと流通業者の双方が
宣伝するケースとなっています。
撮影地:長崎県南串山町京泊名
クミアイ・ブランド

流通業者がつけるプライベート・ブランドは
メーカーに生産委託を行います。
これをOEMといいますが
OEMとは、Original・Equipment・Manufactureの
略で、もとはコンピューター関連用語であったそうです。
今では、相手先ブランド製造を一般的に指す
用語として定着しています。
撮影地:長崎県南串山町京泊名
布津町の看板

この多木肥料の小型看板群は
比較的新しいものと思われます。
それにしても多木肥料の看板は種類が豊富です。
布津町は雲仙普賢岳火砕流被害のあった深江町の
南に位置しています。
布津町の旧道は有明海の海岸を通るところがあり
そこからの風景は火砕流の状況がよく分かります。
詳しくは布津町ホームページの普賢岳写真集を
ご覧ください。
撮影地:長崎県布津町貝崎名
南有馬町のねんねこ看板

黄色の島原鉄道の気動車が走っています。
南有馬町は江戸時代初期に勃発した島原の乱で
一揆軍勢が篭城した原城址のあるところです。
島原の乱は、キリシタン弾圧が原因かと
思われがちですが、本質は農民一揆であるそうです。
詳しくは南有馬町ホームページで紹介してあります。
確かに島原半島は中央部に雲仙の山が聳えているため
平野部が狭く、しかも大きな河川がないために
水不足に対して脆弱な地域であります。
撮影地:長崎県南有馬町大江名
南有馬町のねんねこ看板

島原の乱で篭城した一揆軍勢は全て惨殺されました。
乱後、疲弊した領内を復旧するために
天領の小豆島を中心に移住してきたそうです。
そういった移住者が、小豆島の手延べそうめんの
製造技術を伝来させ、島原半島にそうめん産地が
形成されていったそうです。
また、有馬の地名は島原半島一帯を治めていた
戦国大名の有馬氏に由来があるそうです。
有名な龍造寺隆信との沖田畷の戦いで
島津との連合軍で劇的な勝利を収めました。
龍造寺隆信は、その敗戦を境にして没落していきました。
撮影地:長崎県南有馬町大江名
国見町神代の看板(その1)

島原鉄道の車両です。
黄色の新型車両も導入されていますが
この形式の方が私は好きです。
以前に博多・島原間に相互乗り入れで急行列車が
運行されていたこともありました。
島原鉄道については、島原鉄道 探訪ガイド
とても詳細に説明してあります。
島鉄だけでなく、島原鉄道沿線の風景が
味わえますので、是非ともご覧ください。
また、国見町は高校サッカーの強豪で有名な
国見高校のある町です。
撮影地:長崎県国見町神代
国見町神代の看板(その2)

国営諫早湾干拓事業は必ずしも地元住民に
支持されてはいません。
諫早湾潮受け堤防内部の諫早市・森山町で
諫早湾干拓事業反対のメッセージ看板や
水門開放のメッセージが書かれたトラックを見ました。
しかしながら、今のところ反対運動を起こしているのは
漁民を中心としたメンバーです。
このような公共事業を見直していくためには
地域住民が事業評価に参加しなければ
なかなか気運が高まりません。
その点では、熊本県の川辺川ダム建設問題の方が
議論が進んでいると思います。
撮影地:長崎県国見町神代
4号看板
3号看板


長崎市から西彼杵半島西側の海岸に沿って
国道202号線が通っています。
現在は集落を結ぶバイパスが完成していますが
その影響で集落の中では当時のままの
旧道や民家が残っています。
この西彼杵半島の西側では8ヶ所で
だるまわた看板を確認することができました。
西彼杵郡西海町は東シナ海に面した
海の自然が豊かなところです。
なお、地名の表記に誤りがあるとの知らせを
いただきましたので、訂正いたしました。
撮影地:長崎県西海町七ッ釜
3号看板

上の看板から50メートルくらいしか離れていません。
4号看板の形跡があります。
このように集中して残っていますが
やはり海沿いのために、錆びが進行しています。
自慢できる話ではありませんが、おかげで
今では真っ黒けのだるまわた看板があったとしても
発見できるだけの観察力が養われました。
しかし、自動車を運転しながら捜していきますので
事故には十分に気をつけています。
3号看板

西海町七ッ釜の旧道の様子です。
西彼杵半島をはじめ長崎県は
ビワの栽培が盛んなところです。
おそらく正面の斜面にも
ビワが栽培されているのでしょう。
撮影地:長崎県西海町七ッ釜
4号看板
3号看板


川の河口に沿って民家が並んでいます。
西彼杵半島とその東側の内海である大村湾は
沈降海岸の典型的な地形をしています。
とくに大村湾では海面すれすれに森林が迫っており
そのことが内海の大村湾を浄化しているそうです。
同じ内海の有明海は、それとは反対に
沖積平野を形成する干潟の海なのです。
撮影地:長崎県西海町七ッ釜
4号看板
3号看板


看板捜しをしてから、とくに気づいてきたのが
看板の掲出にOKをされている家の方は
家の景観に無頓着な方が多いと思います。
たとえば佐賀県相知町の旧道の町並みは
木造の立派な建物が多く残っているのですが
看板は全くありません。
町の景観を指導されていると思いますが
隣り近所で、そのように景観を考えられる方が多いと
どうも、その集落全体で看板が見当たらない
つまり看板拒否の集落となっていると推測します。
1号看板

西彼杵郡西海町七ッ釜地区とその南部に位置する
大瀬戸町多以良地区には
だるまわた看板が、それぞれ3ヶ所ずつ残っています。
長崎県の他の地域では、ほとんど現存していないのに
ここ大瀬戸町と西海町では集中して残っています。
この道路は国道202号線の旧道になります。
また、大瀬戸町には松島があります。
西彼杵半島から間近に位置しています。
池島炭鉱が先日閉山になりましたが
松島でも最近まで採炭していました。
なにか寂しげな地域でもあるのです。
撮影地:長崎県大瀬戸町多以良
1号看板

この家には、もう住まわれていないようです。
雨戸が閉ざされています。
この1号看板も、この家が取り壊されると同時に
消滅する運命が待ち受けています。
このようにして、50年前の看板が
今では、ほとんど見かけられなくなっているのです。
4号看板
3号看板


同じく西彼杵郡大瀬戸町多以良にあります。
道路反対側に、おもしろい看板が立ててあります。
今では、国道202号線は全線バイパスが
完成していますが、それまでは、この旧道が国道として
西彼杵半島の観光に利用されていたのでしょう。
確かに20年くらい前までは、地方の田舎に行けば
国道でも、このような狭い曲がり道がほとんどでした。
狭い道は運転のしがいがあるので、個人的には
今でも好きです。(変わり者ですかね)
4号看板
3号看板


ここも同じく西彼杵郡大瀬戸町多以良にあります。
制限速度30キロ終了の標識も写っています。
この先からはバイパスと合流しているのです。
この日は、とても良い天気でしたが
12月は日没が早いですので、西彼杵半島の調査を
途中で切り上げて帰りました。
再度調査すれば、さらに確認できると思います。
なお、地名の表記に誤りがあるとの知らせを
いただきましたので、訂正いたしました。
撮影地:長崎県大瀬戸町多以良
1号看板

西彼杵郡外海町神浦(こうのうら)にあります。
外海町は先日閉山した池島炭鉱の池島のある町です。
池島へは、この神浦からと大瀬戸から渡船があります。
池島炭鉱は炭層が厚く、優良な石炭が採炭できて
いたそうです。しかし、坑内火災発生後、その優良な
石炭がある炭層へ行けなくなり、廃坑が進んだと
いわれています。
国内に残る炭鉱は釧路市の太平洋炭鉱のみと
なりましたが、そこも来年には廃坑するそうです。
外海町のねんねこ看板

上の1号看板のある建物を反対側から見たところです。
ねんねこ看板が建物の両方向に貼ってあります。
西彼杵半島は東シナ海に面しています。
地図には角力灘と書かれていますが
すもうなだと読みます。お相撲さんのすもうです。
お相撲さんの世界を角界といいますので
それで理解できるでしょう。
角力灘には、小さな島がいくつか浮かんでいます。
詳しくは「角力灘」で検索されれば分かります。
撮影地:長崎県外海町神浦
小城と大城

外海町には角力灘に突き出た岬があります。
先の方が小城の低い山塊、本の方が大城の
大きな山塊であるそうです。
地図には小城鼻と書かれています。
阿蘇外輪山にも遠見ヶ鼻などありますが
鼻は一般的に海に突き出た地形に付けられる
地名です。
やはり西彼杵半島シリーズとして海の景色が
1枚は必要でしょう。
1号看板

長崎市三重田の国道202号線にあります。
もはや色落ちした1号看板です。
しかも参議院議員選挙で敗北した自由連合の
ポスターがいまだに貼ってあります。
チリも積もれば山となる作戦(代表が言っていた)も
功を奏せず、一人も当選できませんでした。
これを、だるまわた看板であると分かる方は
この道路を運転している方には、おられないでしょう。
もはや、完全に壁の一部になっています。
1号看板

厳密に言えば当時の道路は、看板のある建物の前
つまり道路沿いのツツジが植えてある奥のところを
通っていたと思います。
それはともかくとして、ちょっとした知識として
長崎県で海岸を持たない市町村は
吉井町・世知原町と波佐見町の三町です。
ちなみに沖縄県でさえも海岸を持たない市町村が
三つしかなく長崎県と沖縄県が日本記録なのです。
このことは長崎県民は当然のこととして
長崎県をある程度、行かれたことのある方ならば
実感できることです。とにかく海に近いのです。
撮影地:長崎市三重田
湯江のふくろくさん

高来町湯江の’ふくろくわた’さんの看板です。
他に、おたふくさんと横倒しになっている
ねんねこ看板、トーア毛糸、ニッカウイスキー
の看板が見えています。
この道路は国道207号線の旧道ですが
進行方向にしばらく進みますと
諫早湾潮受堤防(別名ギロチン堤防)によって
遮られてしまった干潟だったところの真横を通ります。
堤防近くは雑草が生えて陸化しているのが分かります。
撮影地:長崎県高来町湯江
湯江のふくろくさん

製綿業界編に掲載しているふくろくさんの
頭にシミが付いていますので
きれいな頭のふくろくさんも掲載しました。
製綿業界には縁起の良い名前の会社が多く
七福神では他に’大黒わた’さんもあります。
また大黒さんの別名、’ヱビス’さんもあります。
ふくろくさんは軍配も持っているのですね。
4号看板

松浦市御厨の国道204号線にあります。
4号看板の下に3号看板の形跡があります。
だるまさんの表情は福岡県三潴町犬塚の
看板と同じです。
この顔つきのだるまさんは、旭堂看板での
製作のものと思われます。
4号看板

旧国道204号線の風景です。
電信柱とアスファルト舗装がなかったら
当時のままの風景ということになるのでしょう。
現在の国道204号線からも見える位置にあります。
撮影地:長崎県松浦市御厨
4号看板

東彼杵町三根郷の国道34号線にあります。
赤色は紫外線に弱く、どうしても色落ちが目立ちますが
眉と髭は黒々としていて、はっきりと判ります。
全体的には比較的良好な状態であるといえます。
4号看板
3号看板


’美人豆’看板は肥前銘菓版と
肥前のつかない銘菓版の2種類があります。
’ボンタンアメ’は子供のころ、よく食べていました。
4号看板
3号看板


しつこいようですが3枚連続での紹介です。
とてもよい天気でしたので空を大きく写してみました。
俵坂峠を越えますと温泉で有名な佐賀県嬉野町です。
嬉野温泉は私にピッタリのいい温泉です。
神功皇后の伝説から発祥の由来があるように
ぬるぬるした感じが怪我などに効くそうです。
また、嬉野茶でも有名です。茶の大樹もあります。
撮影地:長崎県東彼杵町三根郷
4号看板

完全に錆びくれて、真っ黒けになった4号看板が
島原市三会町にあります。
アップに耐えられないので、旧道の様子を
撮影したのを掲載しておきます。
島原半島には、掲出の記録が多く残っていますが
執念を燃やして可能性のある全ての海沿いの旧道を
捜しましたが、やっと見つけたのはここだけです。
その後、島原半島南部の口之津町でも発見しました。
これで島原半島では2枚目の確認しました。
撮影地:長崎県島原市三会
水無川導流堤

工事が完成した水無川導流堤と平成新山(普賢岳)です。
右側の山は、眉山です。
なぜ、ここを掲載したかといいますと
導流堤右側(北に位置する)の島原市安徳地区には
だるまわた看板の掲出記録が数枚あったからです。
しかし、現存する看板はありませんでした。
火砕流発生後、復旧工事と同時に
この近辺のほとんど全部の家が立て替えられて
雰囲気が、がらりと変わっています。

今後の予定
西彼杵郡を調査します。

ご意見ご感想はこちらまで postmaster@darmax.co.jp お願いいたします。