だるまわた看板の当時の資料です。

児玉ふとん店

久留米市のこだまさんよりいただいた
昭和30年ころの店舗前の写真です。
だるまわたの置き看板が右手にあります。
おたふくわたの綿載せ台が入口にあります。
ちからわたの袖看板が左手の壁にあります。
だるまわたのパラペット看板が印象的です。

カレンダー台紙

昭和30年(1955年)の日めくりカレンダーの
台紙に描かれた絵です。
おかっぱ頭の少女がかわいいですね。
当時は、掛ふとんのカバーは絵のように
縫い付けていたことが分かります。
少女の見ている絵本は助産院のベットに
母親が赤ちゃんと一緒に寝ているシーンです。
凸版印刷で製作されています。
ミゼット(その一)

澤村屋さんが所有されていた
ダイハツミゼットです。
ミゼット(その二)

初期型のダイハツミゼットです。
バイクと同じくアーム式のハンドルです。
ドアが付けてなく、とてもシンプルな構造です。
トラックのボディ

赤ちゃんの寝姿のデザインが愛らしいです。
ホロにも、だるまさんが描かれており
宣伝も兼ねていることに、こだわりを感じます。
パレード出発前

初荷パレードの出発前です。
会社敷地前の道路の対面に並んでいます。
当時の一般的な木造家屋も
今では珍しく感じます。

初荷パレード(その一)

大牟田駅前の国道208号線です。
ちょうど福岡銀行大牟田支店前付近です。
正面には西鉄バスが停車しています。
久留米方面から南の熊本方面へ
進行しているところです。
初荷パレード(その二)

大牟田駅前のロータリーを一周しています。
ソテツが植えてあります。
現在もソテツは残っており
その中心に大きな椰子があります。
写真では、その椰子はまだ登場していません。
初荷パレード(その三)

西鉄バスの背景に駅舎が見えています。
戦前は駅前通りには路面電車が通っていましたが
線路は道路から完全に撤去されています。
熊本県との県境の三川町と大牟田市の五月橋を
結んでいたそうです。
電車道は現在も、そのまま残っており
道幅が広く、電車が走っていたことが分かります。
初荷パレード(その四)

当時は、わたが、とても沢山売れました。
現在では、布団の充填物としては
羽毛、羊毛、綿花、ポリエステルの四種です。
当時は、ほとんど全部、綿花を使用していました。
各地のふとん小売店では
わた入れの職人さんを雇い
木綿布団を作っていました。
初荷パレード(その五)

ボンネット型のトラックが歴史を感じます。
数年後、九州新幹線が博多まで開通しますと
鹿児島本線では、特急の運行を減らすなど
新幹線への利用増加を促進するでしょう。
しかし、博多までの利用を考えるならば
運賃が在来線より、かなり高くなるとすれば
新幹線を利用する人は、それほど多くはないでしょう。
しかも、ここから新大牟田駅が10キロ近く
離れているのが利便性を考察する上で
大きなデメリットになってきます。
初荷パレード(その六)

大牟田駅から熊本方面に南下しています。
最近では、環境にやさしい綿花が
見直されてきています。
綿花の特長は
吸湿性の高さと干した場合の復元力です。
「干せばふくらむ木綿布団」は
全日本わた寝装品製造協同組合の
キャッチフレーズです。
初荷パレード(その七)

大牟田市役所前を進行しています。
この建物は1936年竣工で
空襲対策の高射砲台座などが設置されている
と紹介されています。
正面から入りますと階段を上り二階のフロアに
上がる構造になっています。
一階は半地階となっており、道路の高さに対して
埋もれている格好になっています。
初荷パレード(その八)

笹竹をくくり付けてあります。
大牟田市の北部にある甘木山から
取ってきたそうです。
ボディの上が赤、下が青のカラーリングは
現在も受け継がれているトラックの
デザインです。
今日では、珍しい派手な色合いで目立ちます。
全車両の集結

マツダのワゴン、トヨタのトヨエース
ボンネット式のトラックは扶桑か?
撮影地は不明ですが
この広さから推察するに干拓地と思います。
八女市清水町商店街のネオン(その一)

八女市の中心市街地です。
八女市役所が近くにあります。
撮影方向は不明ですが
筑後市羽犬塚と黒木の東西に繋がる道路で
現在国道442号線となっています。
車やバイク、人通りが時代を感じさせます。
八女市清水町商店街のネオン(その二)

このバスは堀川バスと思います。
堀川バスの福島営業所とすれば
羽犬塚方面を撮影しているのでしょう。
八女は茶の集散地で有名ですが
仏壇、提灯、石灯篭も有名です。
八女市清水町商店街のネオン(その三)

福島までは久留米市花畑から
西鉄福島線が走っていたそうです。
また、国鉄矢部線が黒木町まで走っていました。
八女市の文字があり、市の振興にも
役立っていたのでしょう。
現在では、このようなネオンは立てたくても
国土交通省や警察署、市の交通課など
おそらく許可は出ないと思います。
宇土市本通のネオン

アーチ型にデザインされています。
地元の者ではないので詳しく知りませんが
本通とは、おそらく本町の通りだと思います。
この通りの突き当たりは宇土城址です。
その手前に宇土高校があります。
商店街はその入り口付近で直角に折れています。
現在も写真にあるような商店が残されており
風情を感じる商店街です。
春の町商店街のネオン

現在の北九州市八幡東区春の町
であると推察します。
小倉の文字も見えており
おそらく間違いないでしょう。
人吉市紺屋町だるま通りのネオン

下と同じ紺屋町だるま通りの写真です。
人吉温泉に近く、人吉の中心街です。
なお、ネオンも看板と同じく
カクイわたさん、おたふくわたさん
不二わたさん、高砂わたさんも
九州各地に建設されていました。
下関市山陽本線ガード

既に電化されているのが分かります。
路面電車の線路が走っています。
詳しい場所は分かりませんが
下関駅付近なのでしょう。
ミゼットらしき車が走っています。
通りの少なさから、早朝に撮影したのでしょうか?
下関博覧会

昭和33年に市制施行70年を記念して
開催された下関博覧会に出展した
だるまならぬ、桃から生まれた桃太郎です。
なぜ、桃太郎なのかは不明なのですが
おそらく、開催者の下関市が展示物を
先に決めておいてスポンサーを
後から募集したからでしょう。
門司トンネル博覧会

同じ昭和33年に関門国道トンネル完成を
記念して開催された門司トンネル博覧会
正式名称は世界貿易産業大博覧会に
出展したロケットに乗った宇宙少年です。
ネオンの文字は「宇宙旅行のお供に」と
書かれてあるのが、とても不思議です。
星や衛星と一緒に巻綿と脱脂綿(地球印)が
飾ってあるのが見所といえるでしょう。
昭和33年に関門海峡を挟んで
下関市と門司市(昭和37年に北九州市に合併)の
両市で博覧会が開催されていた貴重な証拠です。
明治町工場(その一)

現在の生産営業本部である荒尾市増永に
移転する前は、大牟田市明治町に
工場がありました。
正面はトップカードが設置してあった
第二工場です。
煙突の手前はボイラー室です。
明治町工場(その二)

第二工場に設置されたトップカードです。
だるまわたや巻き綿を生産していました。
上の写真から分かるように
第二工場は二階建てになっており
二階は、製品倉庫になっていました。
トップカードでの製綿風景

だるまわた合名会社時代の
工場内での作業を撮影したものです。
現在もこれと同じ型のトップカードを使用して
「だるまわた」を生産しています。
巻綿の作業風景

上のトップカードの前で巻綿の作業が
行われている様子を撮影したものです。
作業を中止して起立しているのが
記念撮影の雰囲気が感じられるところです。
しかし、後ろ姿ではなく前から撮影すれば
よかったのにと思いますね。
小売店のトラック

これは小売店さんのトラックです。
だるまわたが荷台いっぱいに
搭載されています。
熊本ナンバーを表す「熊」が読めます。
炭都まつり

昭和25年の炭都まつりの写真です。
炭都まつりは、三池炭鉱のある大牟田市の祭り
として、とても盛んに行われていたそうです。
だるまわたも、宣伝を兼ねてパレードをしていました。
宣伝カーを先頭にトラックに飾り付けをして
張子のだるまさんを載せてたり
船を模してみたりと、祭りを楽しんでいます。
炭都まつり

よく見ると、張子のだるまさんが、鉢巻きをしています。
当時は’わた’しか製造していませんでしたから
4月から8月の盆までは、全く商売に
ならなかったそうです。
そこで、ちょうど炭都まつりのあった5月の連休に
向けて、あれこれと、工夫を凝らした出し物を
準備していたそうです。
今と違って、長閑な時代でもあったわけです。
炭都まつり

炭都まつりで踊りを踊っています。
真摯に取り組んでいる様子が伺えます。

炭都まつり

大きな張子のだるまさんがユーモラスです。
この踊りは炭鉱節のようですが
詳細は調査中です。
撮影場所は工場内ではなく
どこかの広場のようです。
初荷

昭和25年ころの初荷の様子です。
当時の商店にとって初荷は、景気付けハッタリの
デモンストレーションであったそうです。
現在の福袋のようなものでしょう。
初荷を配達する時は、ハッピを着て、鉢巻きをして
いかにも祭りの雰囲気を出しています。
とくに、わた屋と電気屋と足袋(ゴム靴)屋が
初荷を盛んに演出していたそうです。
初荷

昭和35年ころの初荷の様子です。
道路の中央が舗装されています。
宣伝カーも新しくなっています。
道路奥の方角は有明海となります。
煙突などの工場が見えていますが
三井の新開地区の工場群です。
初荷

昭和25年ころのトラック。
当時は大牟田市には三井鉱山と三井染料と
だるまわたしかない(自称)といわれた
大型トラックです。
2台目は三輪車トラックです。
ハンドルはバイクのようになっていたそうです。
宣伝カー

ニュースカーとも言われた宣伝カーです。
今でいう選挙カーのような造りになっています。
車体を別誂えで板金してあります。
後ろのだるまさんが、とてもユニークですね。
普段は依頼があれば、得意先に出かけては
宣伝して廻ったそうです。
この写真は、長崎の港まつりに参加した時のもので
前には、おたふくわたさんの宣伝カーも写っています。
人吉市紺屋町のネオン

狭い商店街の通りに、だるまわたネオンが
並んでいます。
大胆にも、だるま通りの名前まで付けています。
下通り商店街ネオン(熊本市)

熊本市の中心街として有名な下通り商店街に
あったネオンです。
現在はアーケードが造られて、歩行者天国に
なっていますが、
当時は自動車が行き来していたそうです。
正面の建物は、火災事故のあった大洋デパートです。
銀座通りネオン(大牟田市)

大牟田市の中心街の銀座通りにあった
当時のネオンの写真です。
その後、銀座通りにアーケードが造られる際に
取り壊されたそうです。
なお、熊本市の「東洋ネオン」さんのホームページでは
昭和30年代の熊本県各地のネオンを
紹介されています。
是非ともご覧ください。
肥前旭駅付近の野立看板(鳥栖市)

風で倒れているとの知らせで見に行ったときの
写真だそうです。
’87撮影と右下に出ています。
野立て看板は、大牟田市の旭堂看板に
設置してもらっていたそうです。
壁貼り看板は自前で貼りに行っていましたが
野立て看板は地権者との交渉がありましたので
専門の看板屋に代行してもらっていたわけです。
壁貼り看板規格

地方自治体の土木事務所に許可を
申請するときに提出した規格書です。
1号がもっとも大きな看板で
4号が小型の絵看板です。
2号と3号は文字のみの看板になっています。
屋外広告物継続許可申請書

佐賀県唐津土木事務所に提出した
掲出の継続許可申請書です。
昭和46年から判るように、掲出の新規ではなく
継続についての許可申請です。
このような許可申請書を各県の各土木事務所に
提出していました。
もちろん、しっかり手数料もとられています。
野立て看板の説明書

今と違って交通手段の少い時代に
郊外の鉄道沿線にはよく大きな看板が
山の斜面や田畑の中に立っていました。
だるまわたの野立て看板は
鹿児島本線肥前旭駅(鳥栖市)
銀水駅(大牟田市甘木山)、
荒尾駅、南荒尾駅(荒尾市)
大野下駅(熊本県岱明町)
木葉駅(熊本県玉東町)
長崎本線肥前竜王〜肥前鹿島間(佐賀県有明町)
唐津線山本駅(唐津市)の近くにありました。
もちろん、今は全て残っていません。
道路使用許可申請書

大牟田警察署に提出したネオンの許可申請書です。
大牟田市にはだるまわたネオンが3箇所
ありました。
現在は築町交差点に1箇所が現役で活躍しており
ピカピカと毎晩輝かせております。
熊本市下通りにもネオンがあった記録があります。
また、道路使用料金として
大牟田市都市整備部道路課に
毎年、道路占有料を納付しております。

wanted
これより実際に現存する、だるまわた看板のロケです。























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